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自分との対話

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 2年前に開設したこのブログだが、当初数件の投稿をしただけでその後はずっと開店休業中だった。それなのに今年の2月になってから何故か頻繁に投稿を繰り返し、気がつけばもう120を超える記事を書いている。
 自分でもなんでそんなに書く気が湧いたのかさっぱり判らなかったが、何かにとり憑かれたように書き続けてきた。

 もともとオレは人と会ったりするのが苦手なたちで、一番好きな時間は1人でいるときだったりする。でも、引き篭もりのネトウヨじゃないから、平均よりは劣るだろうがそれなりに社交性もあったりする。でも最近はほんと人と会うのがしんどくて、とくに休日なんか、可能な限り人には会わないように、特に知っている人になんか会わないようにしている。まあ、会社には普通通りに仕事しているんだけども、それは別の人格を演じているようなものだな。犬のカーシャと散歩をしていて、前から人が、しかも知っている人なんか歩いてこようものなら、急に横道に入って会うのを避けるくらいだ。

 今年になって身近な人や、長年敬愛する人が続けて亡くなって、かなり鬱になっているようだ。自分ではそうとは気づいていなかったが。
 1月にJohn Wettonさんが亡くなった。彼はオレの最大のロックヒーロー。14歳の時に彼の声を初めて聞いてから、未だに聞き続けているミュージシャンの1人。愛聴とはまさに彼の声にこそ相応しい言葉だ。
 3月には10歳からの友達が心不全で突然亡くなった。亡くなる1週間ほど前にはメール交換したばっかりだったのに。
 9月には会社の社長が亡くなった。脳梗塞で倒れて7年。結局の所最後までまともな社会生活を送れるほど回復する事がなかった。

 そんな事がじわじわとボディーブローのように、効いているんだろう。人と会うのがつくづく嫌になった。休みの日は誰にも会わず、1人庭でただひたすら薪割りに集中しているのが心地良い。

 さて、なんで今年になって長らく休眠状態のこのブログを頻繁に更新するようになったかと云うと、それは自分との対話なんじゃないかなと気がついた。今年はオレにとって今までの人生で一番忘れられない歳になってしまった。このブログのテーマは自分の好きなものについて書く。だが実際には、好きな音楽や文学等々を口実に、そんな自分の心と対話している話が多い。自分の中の自分との会話がこのブログの投稿なのだ。

 こんな内容のブログだと云うのに、ごく数人毎日このブログを覗きにに来てくれる友達が居るのが嬉しい。

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by kararachan | 2017-10-29 21:46 | forward | Trackback | Comments(0)

つくづく、歳を取ると緩むなぁと実感‥‥… 失敬な、緩んだのは膀胱ではない、涙腺だよ。「僕のワンダフルライフ」

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 先週の日曜日に映画「僕のワンダフルライフ」を見に行った。おおまかなストーリーを読んだだけで、トレーラーを見ただけでうるうるしていた映画だったが、女房を誘って見に行ってしまった。
 北見のイオンシネマは客の年齢層が低いんだろうか、残念なことに字幕版の放映はされておらず、仕方がないので吹き替え版で見た。

 さてさて映画が始まってみると、やはりどうしても吹き替え調の日本語が気になって仕方がない。声優さんは一生懸命に仕事をしているのだけれど、家のテレビで観るのと違い音質が良過ぎてスクリーンから言葉が浮いて聞こえるのだ。この違和感だけは最後までついて回った。

 吹き替えの不自然さに冒頭から違和感を感じ続けていたのだけれども、そんな事お構いなしに、涙腺は緩みっぱなしだった。
 少年イーサンと大の仲良しのゴールデンリトリバーのベイリーは、何度も生まれ変わり、いろんな犬になり、いろんな犬生をおくる。そしてセントバーナードのミックス犬として生まれ変わったベイリーは、すっかりおっさんになってしまったイーサンとやっと再会する。孤独な中年親父になっていたイーサンは、ベイリーのおかげで昔の彼女と再会。高校時代の怪我が原因で失ったと思っていた青春をとりもどす。そしてその犬が、かって子供の時に愛してやまなかったベイリーが、生まれ変わって再び自分の元にやってきたと云う事に気がつく。
 もう、老衰やら、事故やらで犬との別れのシーンの度にもう泣けて泣けて仕方がなかった。というか、映画を見る前から、何だか涙腺が震えていつでも、涙放出準備O.Kという状態だったよ。いやはや全く。中年夫婦がボロボロ涙を流して映画を見ていた訳だ。

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コーギーにも生まれ変わりました。

 今現在わが家には1匹ラブラドール犬がいるんだけども、その前に飼っていたやはりラブラドール犬は、オレが始めて飼った犬だった。先代犬・カララは子犬から育ててきただけにとくに思い入れが強い。今でも、またカララに会いたいなと思って切ない気持ちになる。生まれ変わって、またオレの所にやってきてくれないかなんて真剣に思ってしまう。初めて飼った犬と云う事もあり、慣れないためにずいぶんカララには酷い事をしてしまった。カララは生まれ変わっても、オレの所にはもうやっては来ないかな。もっとかわいがってあげたら良かったと、今でも後悔している。だから、今わが家にいるカーシャには、後悔しないように十分すぎる愛情を注ごうと思っているのだ。

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ジャーマン・シェパードに生まれ変わって、優秀な警察犬として大活躍
勤務中に犯人に銃で撃たれて殉死。

 犬、人間問わず、生まれ変わりなんてあるのか? 本当にそういう事が有るのかどうかは判らないが、何頭も犬を飼ってきた人の中には、以前飼っていた犬が再び生まれ変わってやってきたんじゃないか? と思う事が有るそうだ。ひょっとすると、今わが家にいるカーシャも、前世なんてものが有るんなら、その時一緒にいた犬だったのかも? なんて想像してみたりする。一人暮らしをしてから犬を飼い始めたのだが、それまでの犬のいない生活がなんだか不自然に思える。それまでの人生に足りなかったものとは犬だったのだ。

 「僕のワンダフルライフ」の原題はDog's purpose、犬の生きる目的、意味って云う風にでもとらえればいいのかな。邦題がちょっと何だかなぁと思うのだが、オレが高校の時にローマンホリデイと云うバンドがデビューして、その1stシングルが「Don't try to stop it」。だけども日本語タイトルが「おいらは張り切りボーイ」だってさ。それに比べたら遥かにましだ。
 さて、この犬の目的ってなんだろう? と、映画を見終わってから思いを巡らしてみた。劇中で、犬のベイリーが犬の生きる意味について語っていた気がするが、なんせ涙涙涙だったもんで、すっかり忘れてしまったよ。

 オレが思うに、日々その日その日を最大限楽しむ、それが犬の目的なんじゃないかな。過ぎ去ってしまった昨日の事なんか考えていてもしょうがない。まだ来ぬ未来の事をあれこれ考えてもしょうがない。今、今、今その時その時の一瞬をひたすら楽しむ事。それに尽きるんじゃないか。そうと云うのも、わが家の愛犬・カーシャを日々見ていると、そうとしか思えないのだ。これって、人間も同じだよな。その日その一瞬を大事に、人生を楽しむ事。人生を楽しまないなんて、損しちゃうよ、と。

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最後はミックスの大型犬です。
イーサンの愛のキューピッド役までやりますデス。

 洋画というのは字幕で見るものだと思っている旧世代のオレなのだが、今回初めて映画館で吹き替え版の映画を見た。スターウォーズで「ルーク、オレはお前の父親だ」なんて、ダースベーダーが喋ったら吹き出してしまいそうになるのだが、今の若い子達はそれが普通なんだろうな。どうも字幕を読み取れない、そんな人が増えていると云う話を聞いた。日本語能力が十分じゃないのに、小学生から英語教育。何かおかしいと思いませんか?

 それはともかく、「僕のワンダフルライフ」この映画の監督は、オレにとって一番大事な映画「My life as a dog」を撮った監督。淡々と物語が進むのは彼の手法なのだろうか? 気がつけば物語に引き込まれている自分がいる。何度も生まれ変わり、再び大好きな飼い主と再会すると云う筋を縦の線とするなら、少年イーサンの人生が横の線だろう。希望に満ちていた少年イーサンがとある事故で挫折し、彼女ともお別れしてしまう。そのまま偏屈な孤独な中年親父になったイーサンが、生まれ変わったベイリーの働きで、再びその彼女と再会して結ばれると云う、ちょっとほろ苦いストーリーが横の線。縦横の線が合わさって、より映画の味わいを深くしているのは監督の技量なんだろうと思う。
 今度は字幕版でこの映画を見直してみたいな。

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by kararachan | 2017-10-21 23:03 | 映画 | Trackback | Comments(0)

フィリップ・K・ディックの処女作「市に虎声あらん」はフィル版のライ麦畑でつかまえてか?

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 たまに思い出したようにamazonでフィリップ・K・ディックの名前で検索をかけてみる。そうすると時たま新作(死んでもう40年近く経つのに新作とは!)や新訳がヒットする時がある(20年以上前に東京創元文庫で出版されていたものが、ハヤカワから別の訳者が翻訳したもので出版し直されている)。子供の時のように頻繁に書店には行かなくなったので、書籍の情報を得るにはamazonが便利なのだが、読書階級の人間としてはなんだか失格の烙印を押されたようでなんだか悲しい。が、近所の書店じゃ売れスジしか置いていないし、注文しても1ヶ月も待たされた揚げ句に入荷しませんじゃ(書店衰退の一番の原因は「取次」なんだけどね)、ますます書店離れしちゃうのはしょうがないよね。

 そんなんで「市に虎声あらん」というこれまで聞いた事の無い書名がある日フィルの作品の中に登場した。なんとこれはフィルの幻の処女作だという。それが死後40年近くも経ってから初刊行されるとは。その本をつい先日読み終わった。
 物語としては1950年代のアメリカが舞台で、社会に不満を抱くTV販売店のマネージャーが主人公の主流小説。黒人カルト教祖が出てきたり、その教祖と白人女が同棲していたり、そのカルト教祖の情婦をレイプしたあげく理由も無くボコボコに暴力振るうなど、当時としてはかなり過激な描写なんだそうだ。

 簡単に話しをまとめるなら、社会に憤りを持った主人公が、雇い主(古くさい言い方をするなら資本家)に反抗し、そのあげく大けがをして片目を失うものの、その犠牲により安らぎを得たような得てないようなみたいな話。黒人カルト教祖、情婦、TV屋のオーナー、カルト教祖の情婦に対する暴行、主人公の無意味な彷徨と受難と、物語の中に色々なキーワードがあり、フィルがそれらになんらかの意味を持たせているのがわかるのだが、なんせ若気の至りなのか、描写が稚拙で何故主人公がそのような振舞いをしたのかがうまく伝わってこない。書評を読んでみると、ディックの重要な作品なのはわかるが、なんだか褒めないと馬鹿にされると思っているのか、変な嘘寒々しい高評価ばかり。山形浩生も後書きで絶賛しているが、そうかな? とオレは首をひねる。

 そうオレが思うのも、この書籍の一番の問題は翻訳家の資質につきると思う。阿部重夫さんというこの翻訳家だが、Factaの編集長と云えば判る人もいると思う。Factaは元「選択」の編集者がそこを飛び出して作った雑誌。「選択」って、あの高級版噂の真相。今でもたぶんゴミ売新聞に月に一度、「3万人の読者のための雑誌」をキャッチコピーに、定期講読の広告を掲載しているんじゃないかな。そんな文学には縁のない人が、翻訳したからなのか、無意味な漢文調の古くさい言葉遣いでフィルの文章を日本語に置き換えている。その翻訳が文章を読み進める上での最大の障害で、話の流れを滞らせて、物語をよりつまらなくさせている。

 そりゃあ日経新聞の記者から始まった物書き人生とは云え文学少年・青年だったのだろうこの翻訳者は。だけども、自分の知識・教養を、この様な翻訳に注ぎ込むべきでは無いとオレは思うね。文章からは自己顕示欲ばかりプンプン臭って、ちっとも本が面白くない。1950年代に書かれたから、こんな古くさい言い回しをあえて使ったのだろうか? 1950年代は明治時代じゃないぞ。翻訳の文体は作品の内容を反映して、その雰囲気を伝えてこそ価値があるとオレは思う。50年代の青春小説を、三国志でも語るみたいな固い語調を使う事の意味がオレには理解出来ない。訳者の趣味で漢文やらエラク古くさい言葉遣いをわざと使いたくてこの様な翻訳にしたのだろうと思うのだが、それは単なる自分の知識の自慢ひけらかしに過ぎなく、この作品の内容に全くふさわしくない。そのせいで物語のテンポ、登場人物の心の情動の動きがまったく伝わってこない。例えるなら上流階級の舞踏会に柔道着を着た男が出てきて乱取りを始めるような不自然さ。およびでない? こりゃまた失礼しました、だ。
 サリンジャーのライ麦畑で捕まえては同時代の小説だが、訳者はそんな言い回しをしているか? 野崎孝さんの翻訳は、今で非常にみずみずしくて、そんな黴の生えた言い回しなんかしていないぞ。野崎孝さん訳は村上春樹の無味乾燥したモノよりもずっと鮮烈で、みずみずしい。

 まあ、あれこれ翻訳に対する疑問を書いて見たのだが、たぶんこんなブログなんか阿部重夫さん本人の目に触れる事は無いだろう。この翻訳に物凄い違和感を感じたのでその事だけは書き残しておきたいと思って、この文章を書いて見た。阿部重夫さん本人は、ひょっとするとお会いして話をすれば一瞬で意気投合するくらいの人だったりするかも知れないが(というのも、フィルの作品を翻訳するというのはきっとファンだと思う)、何故この様な翻訳にしてしまったのか、何故この様な文体を選んだのか、本人の解説を聞いて見たい気はする。やはりもち屋はもち屋で、早川や東京創文などから、然るべき翻訳者を使って出版すべきなのではと思う(この本は平凡社)。平凡社という本来フィルの作品なんか扱わない出版社から出したのもそもそもの間違いなのかも知れない。2600円という高額な価格にしてはしょぼい装丁。この小説が翻訳された経緯も聞いて見たいものだ。

 さて、あれこれ愚痴はこれまでにして、オレなりにこの作品を総括するなら、これってフィリップ・K・ディック版のライ麦畑で捕まえて、なんじゃないかな、っていうのが読後の一番の感想。個人を抑圧する社会に対する、言葉にできないもどかしさ、いらだち、それを主人公が自己を犠牲にしてまでも抗議するといった大きな話の流れが共通している。
 それとつい最近気がついたのだが、フィルとサリンジャーになんらかのつながりがあるんじゃないかな。その一つはこの「市に虎声あらん」(それにしてもこの題名、なんとかならんのかな。原題はVoice from the street。明治時代の三国志の翻訳かよ、まったく....)。この作品が書かれたのは1951年で、ライ麦畑でつかまえてが出版されたのは1952年。たった1年のタイムラグなので、サリンジャーの影響云々は言い過ぎだとはおもうのだが、抑圧的な社会にいらだつ若者の抵抗と受難という云う大枠が非常に似通っている。

 また1962年に出版された「高い城の男」の高い城の男ことホーソンは実際には高い城には住んでいなかったのだけれど、J・D・サリンジャーは高い塀で囲まれた邸宅(高い城と云うには大げさだが、世間から隔絶された雰囲気)に住んでいたという。ただ単にサリンジャーのイメージをホーソンに借用しただけなのか、これまで読んできたフィルのインタビューや、評論にはサリンジャーとの関わりなんて話は一言も書いていないので、たぶんオレの思い過ごしだとは思うのだが、なんか気になる。こんな事を書くと超フィリップ・K・ディックマニアから、お前そんな事も知らないのかと馬鹿にされそうだが、このちょっとした思いつきを残しておこうと思う。

 それはともかく、フィリップ・D・ディックという作家は主流小説では全く成功せずにその人生を閉じた。オレもこれまで5冊程度の彼の主流小説も読んでいるのだが、正直言ってどれもこれもツマラナイ。売れなくて当然だとおもう。悪いけど。だからこの「市に虎声あらん」も、出版されるまでにこんなに長い年月が必要とされたわけだ。わかるけど。

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by kararachan | 2017-10-10 23:14 | 書籍 | Trackback | Comments(0)

天上の声の持ち主戸田恵子さん

ブログを続けているといろいろと実験がしてみたくなる。8月はとにかく毎日更新したらアクセス数はどうなるのだろうかと、無い乳絞ってネタを考えてひたすら投稿し続けた。そして投稿するたびにフェイスブックにも連動させて、タイムラインに投稿をシェアしてみた。それで解ったのは、そうすれば、とにかくアクセス数は増えると云う事。多い日で15人以上のアクセスがあり、投稿した記事以外も読まれる事が多いと云う事が判った。

 

 9月は逆に、ブログに記事を書いても一切FBでは告知をしないようにしてみた。するとやはりアクセス数は激減した。それでも不思議な事に毎日3人はこのブログを訪問してくれている。それで解った事は、訪問しても新しい記事がなければ、そのまま何も読まずにお帰りになるようだ。9月の末に社長が亡くなった事もあり、10月はこれまでまだ2つしか投稿していないが、投稿するとまるでまき餌をしたようにアクセスが急上昇する。読者の想定は「オレ」というこのブログだが、やっぱり読んでくれている人がいると云うのは励みになるねー。ここのところ、鬱っぽいので、そういうのが何だかとても嬉しく感じる。犬と散歩していても、前から歩いてくる人を見るとおもわず避けて横道に入ってしまったりしてしまう。嫌人症がますます酷くなるねぇ。まあ嫌人症は子供の時からなんだけどね。


 さて今日のお題に入ろう。

 先週末に安彦良和さんの原画展を見ている間、オレの頭の中には1つの歌がずっと繰り替えし繰り返し流れていた。戸田恵子さんがガンダムの中で歌っていた、「おやすみアムロ」と言う歌だ。

 戸田恵子。残念な事に、彼女の歌手としての評価はあまりにも過小評価されすぎだとオレは思っている。この「おやすみアムロ」は、ガンダムの終盤のとても大事なシーンで流れる挿入歌だ。アムロとシャーの戦闘中、アムロにシャーが討たれそうになる、まさにその刹那ララーの乗るエルメスが2人の間に割って入り、シャーを救うためにララーが死んでしまうと云うシーンが有る。爆発するエルメス、爆発で吹き飛ばされるララー、その時にこの歌が流れる。激しい戦闘とは全く不似合いなくらいの切ないこの歌。ガンダムの最初の放送の時だから1979年の事だと思う。当時12歳のオレ。たった一度聞いただけのこの曲だけども、戸田恵子の淡く、儚く、美しく、まるで天井の音楽を聴いているがのごとくその清浄な歌声にとりつかれた。




 でもその歌手が戸田恵子さんだと知ったのはずいぶん後の事だった。スカパーのアニマックスでガンダムを繰り返し見ていて、その歌が戸田恵子と言う歌手だと云う事を知った。なので2000年前後の事だと思う。いったい、あの奇跡の声を持つ歌手はどうしたのだろうと、ずっと思っていたのだが、まさかアンパンマンだったとはね。


 ガンダムが終わり、再びあの奇跡の声の歌手と出会う。それが伝説巨神イデオン。又アニメだ。そう、子供の頃からアニメばっかり見ていたよな、オレも。イデオンは1980年に放送された、巨大ロボットもののアニメで、地球人と異星人との不幸な出会いは戦争になり、ソロシップおよびイデオンがひたすら異星人・バッフクランから追撃され続けるという物語。監督の富野由悠季さんは、このアニメは失敗作だと公言していたが、オレはこれこそ彼が作り上げた最高の作品だと思う。このストーリーはもう、よくぞアニメでこれだけのものを表現したと感嘆するしかないのだが、それについてはいつか書こうと思う。ちなみにわが家の先代犬カララ、今の愛犬カーシャは、ともにイデオンの登場人物から名前を取った。

 そのイデオンのエンドテーマが「コスモスに君と」。歌の出だしを聞いた瞬間に判った。これはあの奇跡の声の歌手が歌っている!と。まさかアンパンマンだったとはねぇ。

上の画像は伝説巨神イデオンのもの。主人公と云っても良い、バッフクランのおてんば娘カララ。彼女のせいで地球とバッフクランとの間で戦争が起こる。その声を担当していたのが戸田恵子さん。カララのモデルは戸田恵子さんだという。



 インターネットの時代になり、何でも便利になった。戸田恵子とはどんな歌手なのだろうと調べるといろいろ経歴が出てくる。ガンダムでシャーの声を演じていた池田秀一さんと結婚して別れたとか、最初はアイドル歌手としてデビューしたけども鳴かず飛ばずだったとか。だけど歌手としてはさっぱりだったのに、声優としては売れて、アンパンマンで声優としての揺るぎない地位を築いたとか。まさか、あの奇跡の声の歌手が、あの力強いアンパンマンの声と同一だなんて思いもしなかったよ。

 その奇跡の声を持つ戸田恵子さんだけども、もし、もし、とても失礼な事を書くのだけれども、戸田恵子さんが美貌の持ち主だったなら、いや斉藤由貴さんの半分ぐらいの美貌でも持っていたとしたら、たぶん今の地位はなかったんだろうね。非凡な声を持ってはいても、たくさんの歌手の間に埋もれて長く活動は出来無かったに違いない。歌手としては売れず、何とか表現者としてやって行くためにやった声優の仕事、それが彼女の才能を開花させるなんて。運命とは不思議なものだ。


 戸田恵子さんは現在、歌手としてはそれほど活発に活動してはいないようだけれども、いくつかアルバムを出している。オレも長年のファンとしては、それは待ち望んでいたアルバムで、もちろん発売と同時に購入して愛聴している。ただ、残念な事に、彼女の声を最大限に生かす曲には恵まれているとは思えないのだが、彼女のコミカルな面なんかも発揮された曲があったりで、とても楽しめるアルバムだった。戸田恵子さんはもっと歌うべきだ。


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by kararachan | 2017-10-08 23:41 | 音楽 | Trackback | Comments(2)

シャー・アズナブルは実在する

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 今日、安彦良和さんの原画展を見に行った。場所は網走市の網走美術館。網走は人口が4万人を切る程度の小さな地方都市なのだが、この規模の街で美術館を維持していると云うのは北海道の7不思議の1つだ。もう一つの不思議は斜里町の知床博物館。人口が1万2千にも満たない町なのに学芸員が4名も居る博物館なんて他には無いだろう。あとの5つはまだ考えていないから、好きに付け加えてくれ。
 

 安彦良和さんの原画展は10月7日〜11月26日の日程で、網走市立美術館で開催されている。入場料は500円。今日は展示会初日で、安彦良和さん本人が開幕のトークをしたらしい。オレはその時間はまだ仕事をしていたので、直接聞いてはいないのだが、もうyoutubeに公開されている。


「安彦良和 原画展」開幕トーク
 
 安彦良和さんといえば、ガンダムなどの作画監督で知られる画家で、漫画家。展示室には90点の彼の作品が展示されていた。展示品のうち約半数はガンダム関連。その他、勇者ライディーン、無敵超人ザンボットスリー、超電磁ロボコンバトラーV、巨人ゴーグ、クラッシャージョー、ダーティーペア等、雑誌の表紙やポスターに使われたであろう原画が展示されていた。
 この展示を見ての感想はただ一言、「圧倒的じゃないか! 安彦良和は!」だ。

 安彦良和さんのこの圧倒的な原画を見てまず心に去来した思いは、これはまさにアートじゃないか。アニメの作画監督、漫画家と云うのは絵書きとしては世間一般的には評価が低く、芸術作品としては下に見られているのが残念で仕方がない。似たり寄ったりの少女の絵しか描けない画家なんか果たして100年後には今みたいな評価を受けているか、オレには疑問に思える。だが、安彦良和さんのこれらの絵は間違いなく愛されより価値を増していると思うのは持ち上げすぎか? あえて言おう、あんな画家こそカスであると!

 安彦良和さんの絵には、その絵の描かれている人物の経歴の重みがしっかりと描かれている。例えばシャー。安彦良和さんが描くどのシャーにも、彼の父が殺され、復習するために身分を偽りジオン軍に入り階級を駆け登り、そしてザビ家に対する復讐の機会をうかがっていると云う、彼の陰惨な人生がその絵には込められている。ただの絵じゃないのだ。安彦良和さんの絵には、この世の何処にも存在しない、アニメでしかないはずの物語が、物語ではなくて切れば血が出る現実の事としてそこに生きている。彼はそういうまさにそこにちゃんと存在している現実をただ絵に移し替えただけなのだ。だから、シャーも、アムロも、ジオングもビグザム、ガンダムも、現実に存在しているのだ。空想を描いたのではなく、現実を描いているのが安彦良和さんなのだ。シャーは実在するs。

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by kararachan | 2017-10-07 23:27 | forward | Trackback | Comments(0)